私は高校2年生の春、浄土真宗親鸞会という宗教団体を離れました。
苦しみの連続でした。何度も死のうと思いました。生まれてこなければよかったとさえ思いました。
何百回も泣いて、10回以上リスカして、苦しくて苦しくて息してるだけで苦痛でした。
そんなとき、ある言葉に出会いました。
「脱会とは、迷いながら生きていく勇気を持つことである」
思いました。
「そうか…。私はこれから迷い続けないといけない。そんな勇気が必要だ」
そこから今に至るまで思ったことを共有していきたいと思います。
カルト宗教から脱会しようか悩んでいる人は読んでみてください。
-宗教に入ると迷わなくなる-
思えば、私が宗教に入っていたとき。私は全く迷いがありませんでした。
気づけば師匠に服従するようになり、勧められたことはすべてやりました。そしてやるなと言われたことはすべてやめました。
鳥居をくぐってはいけない、本尊以外を拝んではいけない、会の批判をしてはいけない。
すべてやめました。なぜかというと、師匠にそう言われたからです。それ以外に理由はありませんでした。
そして会の教えだけが真実だと信じるようになり、それ以外は外道であり嘘だと思うようになりました。
会の批判をしている人を見ると心の中で悪口を言いまくっていました。「あいつは地獄に落ちる」と。
もはやそこに迷う余地はなく、ひたすらに教えの通りに突き進んでいました。
これはカルトと言われる宗教に共通していることだと思います。
「自分たちだけが正しい、他はすべて間違い」
そんな思いにとらわれると、外の声が全く聞こえなくなります。
とにかく自分のやっていることは絶対正しい、すべての人を救う真実を行っていると思っていました。
だから全く迷うことはなく、清々しいくらいでした。
あの日地下鉄に猛毒のサリンを撒いたオウム真理教の人たちの気持ちがわかります。
「自分たちは絶対に正しい」という正義に囚われてしまうと、そこに迷いはありません。だからなんだってできてしまうんです。
-迷いの世界に生きるということ-
ところが、あるきっかけで私は会を離れることになりました。
今まで一切の迷いなく「真実」の世界を生きてきた私にとって、それを捨てることは苦痛でした。
思えば、この世界はわからないことだらけです。
今晩死ぬかもしれないし、私たちは死んだら地獄に落ちてしまうかもしれない。
生きる意味なんてないのかもしれないし、あるのかもしれない。
そんなのわかりません。
だから私は「真実」にすがっていたかった。迷いながら生きるなんて苦しいから。
正解がなんなのかわからず、手探りで探していくよりも最初から正解を与えられて、その通りに生きるほうが遥かに楽ですよね。
宗教は正解を与えてくれるし、その通りに生きていれば幸せになれると信じていることもできる。
だからそのほうがある意味幸せなのかもしれません。
ですが、私は会を離れました。そして迷いながら生きる道を選びました。
-迷いながら生きる勇気を持つということ-
この世界は複雑で、絶対的なルールとか真実は存在しないと思っています。
「あの日こうしとけばよかった」といっても、あの日こうした世界線を私たちは見ることができません。
比べられないんだから、何が正解かわからないです。
それに、私にとっての正解があなたにとっての不正解かもしれないですよね。
カルト宗教はすべての人に共通した正解があると主張しますが、それに当てはまらない人だっています。
そういう人を正義の名の下に攻撃したり、排除したりする。それがカルトです。
私も今まで親鸞会のせいで苦しんでいる人たちのことを見てきましたが、入信していたときは親鸞会が正しいと思っていました。
だから親鸞会に当てはまらない人たちは外道であり、邪魔者であって攻撃しても構わないと。
でもそんなのただの独裁ですよね。
だから私はそんな「正義」を捨てることにしました。
苦しいことの連続でしたが、今はここまでこれてよかったと思っています。
迷いながら生きるのはつらいですが、いつか本当の意味で人に寄り添って苦しみを癒せるときがくればいいと思っています。
正義の名の下に正解を押し付けるのではなく、人それぞれの違いをすべて正解として受け入れる。
私はそんな生き方を選びました。
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