生きる意味が知りたい。
満員電車に押しつぶされながら学校に通っていた私は、毎日そんな疑問を抱えて生きていました。
普通の人なら無視してしまうような小さな疑問ですが、やがてそれは私全体を覆い尽くす闇へと変わっていきました。
本やネットを調べ尽くしても自分の存在の意味には出会えず、毎日毎日学校に行くのが嫌で人生が退屈でした。
そんなときに出会ったのが宗教だったんです。
私は13歳で「浄土真宗親鸞会」という団体に出会い、そして16歳で脱会しました。
親鸞会は統一教会や摂理といった宗教団体のように、偽装サークルを使った大学生の勧誘が問題となっている団体です。
厳密に言えば親鸞会の講師のもとで3年間教えを聞いていただけの末端信者で親鸞会にも入会していなかったんですが、大人になったら親鸞会の布教使になろうと思っていました。
毎日のように親鸞会の教義にさらされ、「親鸞会こそが世界唯一の真実教団。親鸞会の教えを聞いて救われていない人たちは全員地獄に堕ちる」と信じ込んでいた私が、どのようにして脱却できたのか。
一連の体験談とともに共有したいと思います。
ではまずは私が親鸞会に出会うまで。
私が13歳のときにタイムスリップしましょう。
- 虚しさを感じて
- 生きる意味を探して
- <絶対の幸福> という一条の光
- 親鸞会という閉鎖された楽園
- 親鸞会本部へ足を運ぶ
- いつ <絶対の幸福> になれるのか
- 勧誘する側に回る
- あるひらめき
- 瓜生崇さんの本との出会い
- これから
虚しさを感じて
舞台は5月の東京。私が中学1年のときです。
私は中学受験をして中高一貫校に通っていました。
学校は私の家からすごく遠く、バスと電車を3回乗り継がないといけませんでした。
往復3時間以上かかり、満員電車に押しつぶされるだけで体力が削られていきました。
そして正直に言うと、私は学校のレベルがもう少し高いと思っていたんです。
特に数学が好きで、小学生のときに桜井進さんの本に出会ってから数学が大好きになりました。
「面白くて眠れなくなる数学 プレミアム」という本で、最初のページのほうにはフィボナッチ数列といったやさしい内容が書いてあります。
ですが最後のページのほうにはリーマン予想やオイラー積表示(わからなかったすみません)といった内容が書いてあり、独学で微分積分も勉強しました。
なので「中高一貫校に行けばもっとレベルの高い仲間に会える!」と思って必死に受験勉強しました。
そして実際に第一志望校に入ることができたんですが、すごく期待していた分少し裏切られたような気持ちになりました。
もちろん中学生相手に微分積分やその先の数学を教えてくれるはずもなく、xyといった文字の扱いかたといった超簡単な授業に退屈していました。
理科や社会の授業も全く同じで、教科書に書いている内容を少し掘っただけのような授業に飽きていたと思います。
とにかく授業はそこまで面白くなかったし、何より40人に一斉に同じ内容を教える学校教育が問題だと思っていました。
ひとり1人興味関心や価値観、学力のレベルは本当にそれぞれなのに、どうして一緒くたに授業しているのだろう?
そのことが気に入りませんでした。
正直に言うと私は家庭科とか美術、音楽や体育といった副教科が嫌いでした。
もちろんボカロとかEDMの音楽を聞いたり、デザインを見るのは好きなんですが、学校の音楽とか美術ってとにかく教科書の内容の繰り返しじゃないですか。
なので本当の芸術じゃないと思ってました。理科も全く数式が出てこないし、ただ言葉の定義だけしておしまいです。
学校の言う「勉強」より深い学びを求めていた私にとって、学校に行くことは次第に苦痛であり無意味な時間になっていきました。
もちろん友達にも会えるし楽しいんですが、楽しいからといってなにか意味があるのだろうか ー ということをずっと考えていました。
そう、そのときになって「自分はなんのために学校に行ってるんだろう?」という感情が生まれたんです。
学校が終わって友達と一緒に電車に乗って、しばらく話して別れたときに1人になることがありますよね。
そのときになんか虚しさを感じたんです。
電車の扉が閉まってホームから走っていく鉄の塊を眺めていたときに、ふと自分の中になにか言い表すことのできない空っぽの感情があることに気づきました。
ーこれが自分の求めていた中学校生活なのか。
毎日ただ授業を受けて宿題に忙殺されて、本当にこれでいいのだろうか。
満員電車に詰め込まれている人たちは毎日何を思って生きてるんだろう。
人生ってこんなにつまらないものだっけ。ー
そんな疑問が日に日に膨らんでいくのでした。
私の通ってた学校はかなり新しい学校でガラス張りのデザインが特徴的なんですが、17時半くらいに廊下を通るとふと夕焼けが見えたりします。
そのときに何か感傷的な気分になったりします。
「こんな毎日を過ごしてて、自分の人生って何か意味があるのかな。」
テラスには菓子パンを持ったクラスメイトたちが集まってルーズリーフを広げて勉強していたり、スマホでゲームしたりして楽しそうに話していました。
ですが私は新入生気分を楽しむどころか、何か正体不明の暗闇に包まれようとしていたのです。
一体この気持ちはなんなんだろう。
望んで入ったはずの学校で、私はひとり黄昏れていたのでした。
生きる意味を探して
毎朝6時に起きて7時には家を出てバスに乗って、地下鉄とJR線を乗り継いで学校に行く。
8時半から朝の会が始まって12時過ぎに昼休みになって、13時からまた授業。
16時半には授業が終わってそれから部活。
18時に学校を出て家につくのは19時半過ぎ。
食事とお風呂を済ませたら21時くらいになってしまいます。
そこから宿題をやって… という感じのハードなスケジュールです。
土日は休みでしたが、その分宿題が多めに出ます(苦笑)
なので心が休まる日はあまりありませんでした。
毎日毎日同じことをずーっと繰り返してるようで、それになんの意味があるのかわかりませんでした。
教科書を読めばわかるようなことを1年間かけて真面目にやらないといけないんですが、とにかくそれがつまんなくて苦痛でした。
「そんなにレベルの低い中学校行くのが悪いんだ」と思われるかもしれませんが、日本の教育システムは飛び級がない以上どこに行ってもそこまで変わらないでしょう。
手前みそですみませんが、偏差値も70前後です。
なので私はもしかしたら、毎日同じようなことをぐるぐるぐるぐる繰り返すことに飽きていたのかもしれません。
毎日同じような時間に起きて毎日同じような服を着て、毎日同じような通学路を通って同じような授業を受ける。
同じような仲間たちとしゃべって部活に行って、また帰って同じようなご飯を食べる。
それをずーっと繰り返していくだけです。しょせんは人生ってそんな程度のものです。
もちろん些細な違いはありますが、毎日毎日同じようなことをしているのに変わりありません。
たまに休日遊びに行くことがあっても、帰ってきたらまた退屈な日常に元通り。
退屈の無限ループから抜け出ることは許されません。
それに加えて、人生を生きる価値のある目的があるのかという問題もありました。
思えば私の中学受験もそうでした。
「受験に合格すれば幸せになれる!」と思って必死に勉強しましたが、今となってみればまた退屈の無限ループにさらされているだけです。
いっとき一時で目標を見つけてそれに向かって頑張って夢が叶ったとしても、その幸せはやがて儚く散っていきます。
だとしたら、この人生にどんな意味があるんだろう。
だとしたら、自分はなんのために生きてるんだろう。どうせ死ぬだけなのに。
だとしたら、なんで自分はこんなところにいるんだろう。なんで生まれてきたんだろう…
教科書の丸写しに過ぎない黒板をぼーっと見ながら、そんなことをずっと思っていました。
私は学校の行き帰りにイヤホンで音楽を聞くのが好きでした。
学校の中ではイヤホンはおろかスマホも厳禁だったので、学校の中はずっと音楽が聞けませんでした。
昼休みや放課後にこっそり音楽をかけることはありましたが、授業中は先生にバレるので不可能です。
なので授業中は本当に暇で仕方なかったです。
その点学校の行き帰りはイヤホンで音楽が聞けるので至福のひとときでした。笑
でも今思えば、音楽がなかったら虚しくて仕方なかったんだと思います。
自分の存在の無意味さ、どうせ死ぬだけの人生、つまんない学校生活、嫌なことだらけの毎日。
そんな辛い現実から目をそらしたかったんだと思います。
音楽を聞いている間は自分の中にある暗闇が薄まるように感じました。
でもそれもやっぱり一時的なものに過ぎなくて、音楽を切るとふと虚しさが襲ってくるんです。
「やっぱり自分には「何か」が足りない。何か自分には失われたものがある… 絶対何か取り戻さないといけない。このままの人生で死ぬだけなんて耐えられない!」
そう思って「生きる意味」とスマホで検索しました。
そこで出会ってしまったんですね。
<絶対の幸福> という一条の光
生きる意味を親鸞に学ぶ。
そういうサイトに出会いました。そのときは全くわからなかったんですが、親鸞会講師が作ったサイトです。もちろん親鸞会のしの字も出てきませんが。
とにかくそのサイトに出会って、気づいたときにはその内容に引き込まれていました。
「生きる意味は誰しも悩みます。親鸞という人も生きる意味に悩んでいました。その親鸞はずっとそのことで苦しんでいましたが、29歳のときにある体験をしました。そして生きる意味を果たして救われたんです」
「その体験というのは <絶対の幸福> になることで、生きてる間に一瞬で救われる体験があるんです。それがあなたの生きる意味です」
絶対の幸福? なんだそれと思いました。ですが親鸞さんのエピソードが生々しかったり、退屈の無限ループのことを「流転輪廻」と表現して解説していました。
その一個一個の言葉がまさにその時の私に突き刺さるものばっかりで、あまりの衝撃を受けて価値観が変わってしまいました。
そのときの感情を言葉にするのは難しいですが、解決不能な問いを目の前に沈んでいた私の目の前に一条の光が拡散されていくような感覚でした。
もちろん少しは宗教くさいと思いましたが、書いてある内容があまりにも自分にピッタリ当てはまるものだったのでそんな感情はどっかに行ってしまいました。
それよりも <絶対の幸福> のことがもっと知りたい、もしかしたら自分もこの虚しさから救われるかもという期待でいっぱいでした。
今思っても、こうなるしかなかったと思います。
もちろん親鸞会以外に入っていた可能性もありますが、あのときの自分はひたすら人生の意味を求めていました。
同じことを毎日繰り返すだけで死んでいく人生から解放されたい、自分の人生になにかの意味を与えたいと思っていました。
なのでもうそうなるしかなかったと思いますね。抗えない期待感で満たされていました。
そこからは早くて、まずはそのサイトの講師がやっているメール講座に登録しました。
20日間で親鸞聖人の教えを解説するというものです。特に親鸞聖人のこの言葉が印象に残りましたね。
「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」(なんしのぐぜいはなんどかいをどするたいせん、むげのこうみょうはむみょうのやみをはするえにちなり)
私たちの人生は島一つない大海原みたいなもので、色々な浮遊物にすがって生きていると教えられました。
そんな自分をその苦しみ悩みの海から救ってくれる船がある、それが「大船」だということでした。
そしてなんとも言いがたい虚しさや将来に対する漠然とした不安は「無明の闇」と言われていて、その無明の闇を一瞬で破る大きな太陽があると。
そう聞いた私はますます救われたい、無明の闇から解放されたいと思うようになりました。
これは親鸞会流の解釈であって本当の意味とは違うかもしれませんが、とにかく当時の私はその講師の教えの外の世界を知りませんでした。
なので他の人の解釈と比べるということもできず、とにかくその講師のことを完全に信頼していました。
そしておよそ3週間に及ぶメール講座が終わり、今度は半年間のネット講座とZoomミーティングに招待されました。
親鸞会という閉鎖された楽園
<絶対の幸福> になることが人生の目的であり生きる意味だと言われた以上、「どうすれば <絶対の幸福> になることができるのか」が気にならないはずがないですよね。
もちろん私もそれが気になって仕方なかったです。
その講師は「信心決定」(しんじんけつじょう)という体験が生きている間にある、それをすれば <絶対の幸福> になれると言っていました。
信心決定さえすれば生きる意味は果たされるし、いつ死んでも後悔ないという絶対崩れない <絶対の幸福> になれると。
なので「どうすれば信心決定できるのか?」ということが最大のポイントになるわけです。
それに対しては、「一生懸命真剣に教えを聞いて、教えを聞けないときは善をして、そうやって心の道を進んでいけば必ずあるときに阿弥陀仏の光明が届いて信心決定できる」と言われました。
そして「真剣に教えを聞かなければ信心決定できない、火の中を突破する覚悟で聞きなさい」とも言われました。
なので私が一生懸命教えを聞いて聞いて聞きまくって、真剣に仏教の活動に打ち込んで善をして心の道を進んで、その先に待っているのが <絶対の幸福> という心の世界だと教えられました。
「なんでそんなことを信じられるの?」と思われるかもしれませんが、親鸞会の教義は非常に緻密なんですよね。矛盾を探そうとしても私は見つけられませんでした。
たまに矛盾と思われるような小さな疑問点があったりしたんですが、「それはこういうことだよ」というふうに矛盾を解決できる論理も持ち合わせています。
論破しようとしても無駄で、逆に私のほうが納得させられていました。
私は親鸞会の他に親鸞聖人の浄土真宗の教えを聞いてこなかったこともあり、他の人の解釈と比較することもできませんでした。
なので気づけば親鸞会の閉じた論理に染まっていて、もうそれを疑ってそこから抜け出すことはほぼ不可能な状態に陥っていました。
とはいっても、実はその講師が親鸞会に所属していると気づいたのはずいぶんあとになってからのことなんですよね。
メール講座でも「親鸞会」という名前は出てこず、半年間のネット講座でも詳細には明らかにされませんでした。
そのころ私はインターネットで親鸞会の批判記事を読んでいたこともあって、「親鸞会という怪しい団体があるけど〇〇先生とは無関係だろう」程度にしか思ってなかったです。
講師の人に「親鸞会って団体がありますけどどうなんでしょうか?」と聞いたこともありましたが、その時点では詳しく答えてもらえず上手くはぐらかされてしまいました。
その講師の人が親鸞会所属であるとわかったのは随分後のことでしたね。
これが偽装勧誘と言われることもあるやり方です。
「どこどこ所属です」ということや自分の経緯をわざと隠したりはぐらかしたりして勧誘して、完全に信頼関係が出来上がってきたと思ったところで徐々に正体を明かす。
それが統一教会や摂理、親鸞会のやり方です。
親鸞会は今も早稲田大学にダミーサークルを持っていて、大学生の新入生を勧誘して徐々に教義を染み込ませるというやりかたをしているみたいです。
私はネット上で自分で検索して自分でメール講座に登録して自分でネット講座に申し込んで…とやっていったので偽装勧誘とは言えないと思いますが、それでもそういうやり方が今も続いているということです。
今親鸞会が力を入れているのはYouTubeとTwitterで、「わかる仏教」とか「人生の悩みに答える仏教」といった雰囲気でチャンネルを持っていたり、DMを送ってきたりします。
もちろん親鸞会が関わっているということは一言も言いません。
なのでそこから入信してしまったという人も多いみたいですね。
…話が少しそれてしまいましたが、とにかくそういう手法で信頼を崩さないようにキープし続けるということです。
最初から親鸞会と名乗ってしまったら新興宗教っぽいし、親鸞会の批判記事は検索すればいくらでも出てきます。
それを防ぐための戦略ということですが、もちろんこんな方法をしていて問題にならないはずがありません。
「騙された!」と被害を訴える方もたくさんいます。
ですがこの方法は勧誘する側からしてみれば極めて効率的であり、正体がバレない間に親鸞会の教義を徹底的に話して相手を教育できるという利点があります。
親鸞会では「聴聞」(ちょうもん)といって法話を聞くことが非常に重要視されていて、真剣に聞くように何度も言われます。
なので半年間もあれば完全に親鸞会流の教義に染まった人間が完成してしまいます。そこまで来たら自ら抜け出すことは本当に本当に難しいです。
この記事の後のほうでも話しますが、私も親鸞会の閉鎖された教義世界から抜け出すのに本当に苦労しました。
今も親鸞会から出てきたことが間違ってるんじゃないだろうか、親鸞会にいたままのほうが楽だったかもしれない、と悩んでうつっぽくなるときがあります。それほど宗教の影響力は大きいんです。
もちろん宗教でも真剣度は本当に団体や人によってそれぞれですが、親鸞会の真剣具合は異常でした。
<絶対の幸福> になるには真剣に教えを聞くしかないと何度も何度も何度も言われるので、どんな人でも次第に真剣になっていきます。
「<絶対の幸福> になれなくても別にいいんじゃない?」と思われるかもしれませんが、親鸞会では <絶対の幸福> にならずに死んだ人は地獄に堕ちると教えられているんです。
しかも、地獄の中でも最も苦しみが激しいと言われている「無間地獄」(むけんじごく)に堕ちると言われます。
一見するとバカバカしいと思われるかもしれないです。ですが親鸞会の手法は低い段の階段を1段1段時間をかけて登らせるような手法をとっていて、どんな人でも信じてしまうんです。
私は数学が好きなので論理の矛盾には人より敏感だと思っていましたが、そんな私でも気づけば親鸞会の教えが思考の土台になっていました。
もちろん根拠もなしに「<絶対の幸福> になってない人は地獄に堕ちる」とは言えないので、具体的にはこんな論理です。
1, 因果の道理
良い行いをした人は良い結果を受ける。悪い行いをした人は悪い結果を受ける。自分の行いの結果を逃れることはできない。
さらに、生きている間に自分がしてきた行いは死後の世界に結果となって表れる。
そしてさらに、心の中で「あいつ死ね」と思うことはその人を殺したのと同じ罪であり、心で親を悪く思うのも五逆罪という無間地獄行きの種である。
↓
2, 人間の実相
すべての人間は肉や魚、野菜を食べることによって生き物を殺している。これは地獄行きの行いである。
さらに心の中で親を悪く思ってののしったり、仏教を説く先生をおろそかに思うのも謗法罪という無間地獄行きの罪である。
だからあらゆる人間は死んだら無間地獄に堕ちる。
↓
3, 救済
そんな私たちを哀れんで、阿弥陀仏という仏が願いを建てた。
だが私たちは疑いまみれでその願いを受け取ることはできない。
だから生きている間に信心決定という救済体験を得て阿弥陀佛の願いへの疑いが消える体験をして、<絶対の幸福> になった人しか浄土には往生できない。
その体験をしなかった人たちは全員無間地獄に堕ちて半永久的な長い期間苦しみを受け続ける。
↓
4, 救われる方法
じゃあどうやって信心決定すればいいのか? それにはとにかく正しい仏教の教えを真剣に聞き続けるしかない。善をするのも教えを真剣に聞くためにはやったほうがいい。
そうやって聞いていくとあるとき阿弥陀仏の光明が心のなかに届いて、阿弥陀仏の願いに対するあらゆる疑いが一瞬で消える。
これが <絶対の幸福> であり、そうなった人は必ず浄土へ往生できる。
↓
5, 正しい教えを説ける人
だが真剣に仏教を聞いていても、それが正しい仏教の教えでなければ意味がない。
この地球で正しい教えを説いているのは親鸞会が唯一であり、それ以外の浄土真宗や仏教の講師は全員間違っている。
親鸞会の外で救われることは絶対にない。
こんな感じです。
特に因果の道理というのは感覚的にも正しいと思えるし、死後の世界がないと反証することもできないですね。
この教義が嘘か本当かという話はここではしません。
もしかしたらこの教えが正しいかもしれないし、間違っているのかもしれません。私にはわかりません。
ですが実際にこういった教義で信者の心を支配していき、親鸞会に依存させていくのは事実です。
実際に私もこういった心のステップをたどって教えを聞いてきましたし、もちろん最終段階の5番まで到達しました。
ここまで来てしまったらもはや抜け出すことは容易ではないと言ってもいいと思います。
もちろん出ることが不可能なわけではないですが、出るときに相当のダメージを受けることは確かです。
なんと言っても親鸞会は「閉ざされた楽園」であり、そこに留まってるほうがはるかに楽なんですから。
今思えば、親鸞会の教えを聞いている仲間との会話は本当に楽しかったです。
「生きる意味」「死の不安」という普通の人が通り過ぎるような問題を真面目に見つめて、その解決を目指して一生懸命に <絶対の幸福> を求めている人たちが親鸞会には集まっています。気が合わないはずがありません。
しかも自分たちには <絶対の幸福> という生きる意味が約束されていて、そのためだけに生きていけばいい。本当に毎日が充実していました。
宗教、特に親鸞会のような熱気が異常なほどの新宗教に入ると心も体もボロボロになっていくと思っている人が多いと思います。でも実は逆なんですよね。
私が親鸞会の教えを聞いて <絶対の幸福> を目指していたときは毎日が本当に充実していました。
「退屈な授業を受けて死ぬだけの人生じゃないんだ。自分は <絶対の幸福> になれるんだ!
しかもこの教えを知っている人は本当に少ない。なんて自分は幸せなんだろう。この教えを伝えてくださった先生に感謝しないと…」
自分の人生に <絶対の幸福> という目的地が出現したことによって虚しさはすべて吹き飛び、私は退屈の無限ループから解放されていました。
気づけば <絶対の幸福> になるためにひたすら教えを聞き、そうすればやがて信心決定して浄土に行けると思っていました。
<絶対の幸福> になるためだったら死んでもいい。これが自分が生きてきた意味だった。
そう思って毎日活動していました。
そのときには講師の先生と毎週Zoomでミーティングするようにもなり、また放課後は東京の親鸞会の拠点にもほぼ毎日顔を出して教えを聞いていました。
学校の部活はもう久しく行っていませんでした。
高層マンションが立ち並ぶようなかなり大きなターミナル駅の近くにあって、3階建てのレンタルスペースの3階にある拠点です。
そのレンタルスペースには最初に出会った講師の人とは別に3人の人が日替わりで来ていて、いつも行くと1人か2人の講師の人がいました。
オートロック式で外観もきれいで、スペースの中もめちゃくちゃきれいです。
キッチンとお風呂もあって、奥の和室には仏壇があってそこで勤行(ごんぎょう)もしました。
勤行というのはつまりおつとめのことで、正信偈という親鸞聖人が書かれた詩を唱えることです。あとは念仏ですね。
その講師の人たちは私の教えの理解が進むたびにほめてくれて、お菓子やジュースをくれたりもしました。
リビングには大きなテレビがあって、そこで仏教の教えを聞くことができます。
まさに毎日が充実していてパラダイスみたいでした。冗談ではないですよ笑
本当に毎日が楽しくて、この教えに出会うために自分は生きてきたんだと毎日思っていました。
周りの講師の人たちからは「君は本当に尊い人だね」と言われ、学校にいるよりもずっと楽しかったです。
ちなみに、この頃に親鸞会が関わっていることは明らかになりました。ちょうど1年経ったくらいの頃です。
勤行のときも聖典の表紙に「浄土真宗親鸞会」と書いてあるし、講師の人たちと一緒に見たアニメビデオも親鸞会制作のものだとわかっていました。
ですがそのころには親切な人たちに囲まれていて、教義の内容もわかってきたし親鸞会の活動をやめる理由がありませんでした。
というより、私はまだ <絶対の幸福> になっていなかったのでやめたら地獄行きです。やめるなんてことは思考の前提から除外されていました。
しかも教義の内容がわかってきたということは、外部の批判に対する免疫がついたということです。
たまにネットで「親鸞会 教え」と検索することもありましたが、そこで出てくる批判は全部おかしいものだったんです。
完全に親鸞会の論理とずれている批判ばかりでした。まあ当たり前ですよね。笑
「親鸞会のここがおかしい!」という記事を読む機会もありましたが、今まで言われ続けてきたことと正反対のことを言っているんです。狂った人たちだと笑って見ていました。
「真実を誹謗中傷する連中は無間地獄に堕ちる。だから無視しなさい」と言われていたので、外部の批判を見たくらいでやめようとは少しも思いませんでした。
むしろ地獄に堕ちるかわいそうな人たち、真実を知らないで真実を非難する極悪人だと思っていました。
なのでこの頃になると周囲の助言も完全にシャットアウトされる、「完全封鎖」の状態に陥っていたんです。
「ネットは親鸞会への誹謗中傷で溢れている。仏教のことをネットや本で調べるのはやめたほうがいい」と言われていて、気づけば親鸞会への批判というだけでその記事を遠ざけるようになっていました。
その頃に瓜生崇さん(あとで脱会のきっかけになってくれた方です)という人が「さよなら親鸞会」というサイトや本を立ち上げていて、その存在を知ることはありました。
瓜生崇さんのことを講師の人に話して、「なんで瓜生という人は親鸞会のことを目の敵にして批判しているのでしょうか? なにか恨みでもあったんですか?」と聞くと、「親鸞会のことを個人的に恨んで八つ当たりしてるだけだと思う。真実の親鸞聖人の教えを全く説いてないし相手にしなくていいです」と言われました。
そういう情報を滝のように浴び続ければ、人間は誰しもそうなってしまうのです。ここが恐ろしいところですね。
ですが当時の私には情報操作やマインドコントロールされているという自覚はまったくなく、「自分の意志で真実に出会って今こうして教えを聞けているんだ」という思いしかありませんでした。
親鸞会を誹謗中傷する人間は1人残らず無間地獄行きであり、親鸞会で教えを聞いて <絶対の幸福> になった人たちだけが浄土に行けると。
そういう思いが100%でした。
そんなときに、レンタルスペースの講師の人たちから「富山に行ってみない?」と誘われたのでした。
親鸞会本部へ足を運ぶ
親鸞会という教団は富山県射水市に本部を持ち、その本部会館は <二千畳> (にせんじょう) と言われていました。
文字通り2000枚の畳が本部会館に敷き詰められていて、そこでみんな正座して先生の法話を聞くんです。だから二千畳ですね。
親鸞会では毎年10月に報恩講という行事があって、浄土真宗では最大の行事だとされています。
その報恩講のとき私は富山の二千畳に行きました。
東京から富山までは北陸新幹線で行くのが一番速いんですが、そのときは千曲川が増水して北陸新幹線が不通になっていました。
なので長岡駅を通る上越新幹線ルートで行くことになりました。ちなみに交通費はどうしたかというと、親に嘘をついて2万円をもらいました。
親に「親鸞会の本部に行く」なんてことを言ったらとんでもないことになるのはわかりきっています。
もしここで親鸞会に陶酔していることがバレたらおそらく仏教を聞けなくなってしまいます。
なので絶対にバレないように完全に隠し通していました。
もちろん、家族に嘘をついて隠し通す生活はとてもつらかったです。「もしバレたらどうなるんだろう…」と怖くて寝れなくなったこともありました。
まるで浮気を隠し通してるような感じです。
ですがそれ以上に、仏教を聞けなくなったら無間地獄に行くしかありません。人生はせいぜい100年程度、死後は半永久だと自分に言い聞かせていました。
また、親鸞会の講師の人たちからもこんな2つの歌を聞かせてもらいました。
「通さぬは 通すがための 道普請」
*意味:道普請(みちぶしん)とは道路工事で交通止めにすること。
みんなの意地悪をして交通止めにしているのではなく、道路工事をしてみんなが安全に道路を通れるようにするために工事をしているのだという意味。
転じて、親に嘘をついて親鸞会の本部に行くのは悪い行いではなくて方便であり、親を導くために必要な手順であるとのこと。
「後世者とは 忍び女に さも似たり 人目を忍んで こそこそといく」
*意味:後世者(ごせしゃ)というのは後生の一大事の解決(<絶対の幸福> になって無間地獄域を回避すること)を目指して求道している人のこと。
後世者というのは不倫している女性に似ていて、人目を忍んでこそこそ求道するものだという意味。
「たとえ親によって仏縁が邪魔されても、それは君の求道心を試す勝縁になる。そんなときこそ真剣に聞くチャンスだ」とも言われました。
なので二千畳に行くことは自分の求道心を試すチャンスであり、またとない勝縁だと思いました。
だからたとえ親に嘘をつくことになっても、二千畳に行くことが自分の仏縁になると自分に言い聞かせました。
そして当日になり、東京駅から上越新幹線に乗って長岡駅に行きました。
天気は曇りで少し寂しかったです。
長岡駅からはレンタルスペースの講師の人が運転する車に乗って高速道路を走り、親鸞会の本部会館に到着しました。
まず駐車場の横に会館までつながる地下道があって、そこに浄土真宗や親鸞会の歴史が年表みたいな感じになって展示されていました。
そこを通ると会館の正面に出て、大きな階段とエスカレーターが2~3本ほどありました。
すごく豪華で、内装もとてつもなくきれいで自動販売機もありました。
そして噂の二千畳に入ると、本当にたくさんの畳が敷き詰められていて多くの人が集まっていました。
正面には親鸞会会長の高森顕徹(たかもりけんてつ)という人が説法するステージがあって、真ん中に仏壇と「南無阿弥陀仏」の名号がありました。
遠くてはっきり見えたわけではなかったんですが、とにかく豪華な設備が特徴的でした。
その日の演題は「釈迦と弥陀の違い」というものだったのですが、みんなとにかく正座で真剣に聞いていました。
途中休憩を入れて40分+40分ほどの話をみんな本当に真剣に聞いていて、「やっぱり自分はまだ求道心が足りないのかな…」とも思いました。
とにかく親鸞会の人たちって真剣なんですよね。
「人の命は無常だ。今 <絶対の幸福> にならなければ地獄に堕ちる」という教えをちゃんと聞いているからなのか、手抜きで教えを聞いている人はいません。
人によっては親鸞会に多額のお布施(献金)までして求道心を高め、なんとかして無間地獄を逃れたい、<絶対の幸福> になりたいと思って集まっているんですね。
なので熱気が本当に桁違いでした。
そしてその熱気は、高森顕徹会長ただ1人を唯一の善知識(仏教を正しく説く先生)と崇拝するカルト的なものにすら感じました。
高森顕徹会長ただ1人に全信者の地獄行き/極楽行きがかかっているー みたいな空気でしょうか。
とにかく、いい意味でも悪い意味でも親鸞会は普通のお寺とは違うということです。
個人的には「二千畳で高森顕徹会長の話を聞けば <絶対の幸福> になれるのかな…」とも思っていたんですが、やっぱり <絶対の幸福> にはなれませんでした。
いつ <絶対の幸福> になれるのか、という気持ちがだんだん自分の中で膨らんでいきました。
話では1ヶ月で <絶対の幸福> になったという人もいれば、10年聞いてもなれない人もいると聞いていました。
そう思うと、<絶対の幸福> になる前に死んだらどうなるんだろうという強い不安がこみ上げてきました。
二千畳から帰っても特に家族に親鸞会の活動がバレることはなく、また活動を続けました。
いつ <絶対の幸福> になれるのか
そうやって親鸞会の活動を続けていたんですが、レンタルスペースには通えなくなりました。
コロナウイルスの影響ですね。
緊急事態宣言が出されたことによって学校も休校となり、家から出られない生活がしばらく続きました。
今までZoomは家族にバレないようにカフェとかマックで聞いていたんですが、それもできなくなりしばらく仏教を聞けなくなりました。
そういった生活が1ヶ月以上続いてとても苦しかったです。
ですが緊急事態宣言も1ヶ月で解除され、また学校も再開されました。
その時の私にとって、学校はただの家から出る口実となっていました。
レンタルスペースは行けなくなってしまいましたが、放課後には週に1回カフェに立ち寄ってZoomを聞く。
そんな毎日が続いていました。
その頃には教義がどんどん深くなっていき、さらに大量の親鸞聖人が書いた文章の根拠も覚えるようになっていました。
前回紹介した「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」というのも親鸞聖人の言葉で、教行信証という本の中の文章です。
それを覚えて親鸞会の教義と親鸞聖人の文章の根拠とを関連付けたり、さらに深い教学を学んだりといったことをしていました。
親鸞会の教義の深い部分にあるものの1つに「三願転入」というものがあって、それが「一生懸命教えを聞いたり、善をしなければ <絶対の幸福> にはなれない」の根拠になっていました。
厳密には「特に大事なのは教えを聞くことで、善行をしたり勤行することは求道心の助けになって仏縁を深めてくれる」という立場なのですが。
まあ厳密な教義は一旦置いておいて、ここまで来ると親鸞聖人の文章と親鸞会の教義との関連付けが済んでしまうわけです。
信仰心を補強する「根拠」があるというのはかなり強力で、他人がそれを外から崩そうと思ってもかえって逃げられてしまうだけです。
なので親鸞会の教義が頭に染みわたり、その根拠も覚えているという状況にまでくると抜け出すことはまず困難ですね。
私も「いつになったら <絶対の幸福> になれるんだろう…」という疑問はあったにせよ、それ以外は親鸞会が真実だと固く信じていました。
親鸞会を批判する情報を全てブロックし、親しい人には親鸞会に陶酔していることをひた隠しにして求道させ、その信仰に根拠まで与えられる…
今思えばマインドコントロール的要素がなかったとは思えません。
暴力を加えられたり薬物を飲まされたりといった明らかに犯罪的な行為は一度もされたことはありません(むしろすごく優しくしてもらいました)が、教義の中に「地獄に堕ちる」だとか「<絶対の幸福> になることが人間に生まれてきた目的」というのが入っているので思考の根底から書き換えられてしまいます。
そして親鸞会が世界唯一の真実の教団だということが思考の大前提になり、もはや疑う余地すらなくなってしまいます。
ここが怖いところですね。私のように自ら求めて入信していったケースはまだマシかもしれないですが、親鸞会に偽装勧誘されて今も信者だという人もたくさんいます。
1人の人間の人生を根底から書き換える宗教において、自分の立場をごまかしながら勧誘しておいて「嘘は真実を伝えるための方便」と言っているのは納得できません。
私以外にもたくさんの被害者がいるということですね。
…話を戻すと、その頃の私の思考回路の根底には「親鸞会とその教義は真実」というものがありました。
「私が今ここで生きている」という事実と同じくらい確かだったのが「親鸞会とその教義は真実」というものでした。
それほどに親鸞会の活動にのめり込み、<絶対の幸福> 1つを目指して必死に求道していました。
ですがその心のなかにはいつも、「いつになったら <絶対の幸福> になれるんだろう…」という焦りがありました。
そのことを講師の人に相談すると、「その焦りは真剣に仏教を聞いている証拠。阿弥陀仏の光明が確実に届いていますよ」と言われました。
そうだったらいいな…と思いつつまた活動を続けるのでした。
勧誘する側に回る
気づけば初めて親鸞会に出会った日から2年半以上が過ぎ、将来の進路も数学者になりたいと思っていたのが親鸞会の教えを全世界に伝える布教使になりたいと思うようになっていきました。
講師の人がYouTubeを始めてそのチャンネルがすごい勢いで伸びたり、オンラインサロンも始まってそこに入ったりもしました。
そのオンラインサロンの名前は出しませんが、月額1000円で仏教の教えが聴き放題と銘打っているサイトです。
そこでは毎日のように複数人参加のZoomライブ配信が行われ、熱心な人が集まって質問が交わされていました。
毎週水曜日の20:00からのライブは内容が初心者向けのもので、毎回25人以上の人が集まって話を聞いていました。
コロナの影響でインターネットを介したご縁が増えたとはいえ、私の真剣度はむしろ上がっていきました。
他にも「浄土真宗学院」という親鸞会関連のインターネット講座に招待されたり、「とどろきオンライン」というものも受けました。
公式サイトには小さく「浄土真宗親鸞会」と書いてあるだけで、親鸞会関連というのはかなりわかりにくいです。正直姑息だと思います。
他にも親鸞会直轄の出版社として「1万年堂出版」というのがあり、高森顕徹会長からは「なぜ生きる」「なぜ生きる2」「歎異抄をひらく」といった本が販売されています。
もちろん私も全部買いました。家族にバレないように電子書籍で買いましたが。
というのも、毎回のオンラインサロンのミーティングでは「なぜ生きる」が根拠となって話が進んでいく場合が多かったからです。
お経や親鸞聖人の著書の根拠ももちろん大事にされましたが、「なぜ生きる」たちもそれと同じくらいに大事にされていました。
その講師の人はいつも「高森顕徹先生が自分の師匠だ」と言っていて、メンバーもある程度それをわかっていたからです。
しかし、どういうわけか「なぜ生きる」たちの最後のほうの著者プロフィールの「高森顕徹」の欄には「浄土真宗親鸞会会長」ということがひとことも書かれていないのです。
浄土真宗の布教使とだけあって、自分の所属団体を隠すのは卑怯だと思います。
ですがその当時は「なにか深い意図があるのだろう」としか思っていなくて、それが問題だとも思っていませんでした。
あともう1つ感じた疑問として、ある日親鸞会のウィキペディアを見ていたらこう書いてありました。
仏教を求める目的は、後生の一大事(死ねば必ず無間地獄へ堕ちるという一大事)の解決一つと教えている。平生に信心決定した人は極楽に往生するが、信心決定していない人は無間地獄に堕ちると説く。これを「一切衆生、必堕無間」と親鸞会では教えられているが、経典にこのような言葉はない。 > > 出典:Wikipedia
<一切衆生 必堕無間> という言葉はこれまでも聞いてきましたが、なんとその言葉が経典には一切ないというのです。
これはどうなのかなと思って講師の人に尋ねてみると、こう言われました。
「たしかに <一切衆生 必堕無間> という言葉そのものは経典にはないです。だけど観無量寿経に「応堕地獄」とあるように、すべての人が必ず無間地獄に堕ちるという事実自体はなんらおかしいものではない。経典上の根拠はいくらでもあります。それを鬼の首でも取ったかのように「<一切衆生 必堕無間> は間違いだ!」というほうがおかしいのであって、何も間違いはありません」
そのときも「なるほど」とうなずいてしまいました。言葉自体はないけど、言ってることは間違いじゃないなと。
でも今思えば、内容が合ってるからといってお経にない言葉を自作して「一切衆生 必堕無間 (釈迦)」みたいに、明らかにお釈迦さまの言葉だと誤解させる高森会長のやり方は間違っていると思います。
キリスト教やイスラム教でも、聖書やコーランにない言葉を自作して「神の言葉なんです!」なんて言ってたらとんでもないですよね。
お経風にカッコつけて自作した言葉ならちゃんとそれを明確にしないと、ますますみんなからの信用を失うだけだと思いますがどうでしょうか。
ですがそれでも矛盾だとは思わず、講師の人の言葉に納得させられてまた活動を続けていました。
それである日、講師の人に「早く <絶対の幸福> になるにはどうしたらいいですか?」と質問しました。
そうしたら「仏教の教えを聞くことが一番大事だけど、24時間ずっと教えを聞けるわけじゃない。だから勤行と法施(ほうせ)をしたほうがいい」と言われました。
勤行はレンタルスペースに通わなくなってからずっとしてなかったので、すきま時間があるときに正信偈や念仏を唱えていました。
そして法施というのは何なのかというと、人に仏教の話をして導くことです。つまりは勧誘ですね。
「勧誘という善行が仏縁となって <絶対の幸福> への道を進ませてくれる」と聞いたので、さっそく勧誘してみようという気持ちになったのでした。
ですが時代はコロナ渦で、外に出て街頭で勧誘するわけにはいきません。
どうしようと思ったのかというと、自分が仏教に出会ったようにウェブサイトとメール講座を立ち上げようと思いました。
最初はnoteを使ってブログを書きました。
今はもう消してしまいましたが、わかりやすく言うと親鸞会の教義を細かく砕いて丁寧に解説するブログを作ったんです。
noteというプラットフォームのおかげもあって、多いときでは月8000ビューもの閲覧がありました。
そのたびに「真実を求める人はこんなにいるのか…」とうれしくなりました。
ですがそのブログの内容がかなり高度だったためか、問い合わせのメールはいつも50代前後の男性ばかりでした。
そこで今度は自分と同じ立場の中高生の人たちに真実を伝えたいと思って、Wordpressで新しくブログを作りました。
そしてSEOやコピーライティングもある程度勉強して、メルマガサーバーも契約して一連の勧誘の流れを作りました。
もちろん親鸞会なんてことは一言も言わずに、「未読スルーされたときの対処法」みたいな切り口から中高生に響きそうな記事をひたすら書いていました。
…気づいたら、勧誘された側が今度は勧誘する側に回ってしまうんですね。これが信者が増殖する根本原理です。
「真実を知らされた」と思った信者が善意で人を勧誘し、ある程度時間が経って今度は勧誘されたその人たちがまた勧誘する…の無限ループです。
もちろん最近では新規入会者より脱会者のほうが多いみたいなんですが、それでもマルチ商法の勧誘のそれと原理は全く変わりません。
ただマルチ商法と大きく違うのは、「地獄に堕ちる」「<絶対の幸福> 以外に生きる意味は存在しない」といった人生観そのものを根本から書き換えてしまう超強力なマインドコントロールであるかどうか、ということです。
もちろんマルチ商法もお金と時間を吸い取られて深いトラウマを残しますが。
なので原理的には勧誘の鎖が何重にも重なっていくのであり、また勧誘を「法施=善」としている以上、悪意は何もありません。
実はこれがマインドコントロールの本質だとも言われています。
マインドコントロールというと悪意を持って誰かを洗脳する、というイメージが強いと思いますが、実態はそうではありません。
勧誘されて教育された信者がただの善意でどんどん人を勧誘していく現象、これがマインドコントロールの本質なんですね。
なのでやってる本人には悪意は全くありません。私もそうでした。
「これは真実をみんなに伝えて人々を救済する活動であり、何物にも代えがたい素晴らしい善である」と教わってきたので本当にそう思っていて、「これは正しいことだ」と思って善意のままに人を勧誘するのです。
だから悪行どころか、最高の善であるとの自覚を持ってブログを書いていました。
そしてそうやって精力的にブログを書いていると、不思議と何件かお問い合わせが来たりメール講座への登録があったりしました。
そしてメール講座を最後まで読んでくれて、私のところへZoomの申し込みをしてくれる高校生の人もいました。
こんな感じで親鸞会の勧誘の鎖は代々受け継がれてきていて、それが今でも偽装勧誘という形で残っているのです。
親から子へ受け継がれる癖みたいな感じかもしれません。無意識的にずーっと同じことが繰り返されています。
最近はYouTubeやTwitterに勧誘の舞台がシフトしたみたいで、親鸞会講師だということを言わずに運営されているアカウントを何個も見つけることができます。
もちろんそれらの人たちは善意でやっています。
「これは真実を伝えるための正しい活動であり、真実を伝えるためであれば最初に不審を抱かせないように親鸞会だということは言わないほうがいい」という論理です。
そう、まさに「通さぬは 通すがための 道普請」という論理です。本人たちは「自分は完全に正しい」と思ってやってるから手に負えないんですよね。
私もそっち側の人間でした。メール講座で集めてきた中高生相手に仏教の話をして、少しずつ教義を浸透させていったりということもしました。
ですが、どの人も2~3回Zoomで話したくらいで失踪していなくなってしまいました。その度に「仏縁がなかったんだな」と思っていました。
ですがあまりにも人がいなくなっていくので次第になんか虚しくなってきました。
「せっかく話した人もすぐいなくなっていくし、なんでなんだろう…」
自殺しようと悩んでる中高生の人たちの力になりたい。救いたい。助けになりたい。自分のブログで救われる人が1人でもいてほしい。
そんな思いから私はブログをはじめました。でも気づいたときには、どうしたら自分たちの教義を相手に押し付けて分からせることができるかという思考に変わっていました。
教義がわからず去っていく人たちを見下すような気持ちになって、自分だけが救われるものだとつけあがってきました。
すぐ目の前にいる相手の悩みを傾聴することよりも、そうやって傾聴することによって信頼が築けて信用の教育につながると思うようになっていきました。
テクニックに陶酔し、気づけば初心を忘れていました。どんな思いで自分は仏教を求め、何から救われたいと思ったのかと。
そう思ったとき、本当に「救う」「救われる」とはどんなことなのかを考えるようになりました。
<絶対の幸福> という唯一の教義を人に押し付けることなのか?
その教義からはみ出した人の人生は無意味なのか?
みんな罪を重ねて無間地獄に堕ちるだけの人生であって、全員の人生が無意味なのか?
じゃあ自分たちは救われているのか?
自分は救われているのか?
そう考えたとき、なんだか自分は親鸞会では救われていないような気持ちになりました。
2年半以上求めてもやはりまだ <絶対の幸福> には到達していませんでした。
とはいっても、やはりまだ親鸞会の教義世界から抜け出すことはできていませんでした。
少し自分の頭の中に疑問が浮かんだだけで、気づくとまたどうやって勧誘しようかということを考えていたのでした。
あるひらめき
ですがその日からブログの更新はストップしてしまい、やる気がなくなってしまいました。
気づけば自分の精神は疲れ切っていました。
「どうすればもっと多くの人たちにメール講座を登録してもらえるか」という形式的なものに囚われてしまったぶん、いちばん大事な「誰かを幸せにすること」という根本を忘れていました。
ですが親鸞会の中では「幸せ」と言えば <絶対の幸福> とそれ以外であり、<絶対の幸福> 以外の幸せはすべてやがて崩れていく偽物だと教わってきました。
だから「多くの人を勧誘して <絶対の幸福> に導くこと」が親鸞会で言う「誰かを幸せにすること」なんです。
ですが私はなにか違うとも思っていました。だから少しブログの更新をストップして休んでいました。
そしてある日にお風呂に入っていると、急に級数の列を別の級数で展開する方法を思いつきました。
そう、数学です。
そこから夢中になってゼータ関数の級数を展開し、ベルヌーイ数の列で漸近展開できることがわかりました。(わからなかったらすみません)
結局その発見は新発見ではなかったんですが、なんか久しぶりに楽しいことに没頭したような感覚を体験しました。
「これ新発見かも!」とワクワクしながら計算した感覚は本当の楽しかったです。
そして計算に没頭してから1ヶ月以上過ぎ、気づけば親鸞会の活動から遠ざかっていました。
瓜生崇さんの本との出会い
気づけば自分の心の中に変化が起きていて、それまで見れなかった親鸞会批判の記事を見ることができるようになっていました。
もちろんひどい言われようで読んでいて気持ちよくなかったですが、次々と色々な情報が出てきました。
まず1つ目が、高森顕徹会長の本の一部が丸々コピーであるという件。
大沼法竜さんという一昔前に活躍した浄土真宗の布教使がいたんですが、高森顕徹会長の本の一部は大沼法竜さんの言葉で埋め尽くされているというのです。
実際に確認してみると、本当にそうでした。つまりは盗作のようなことをしていたわけです。
引用先を載せるのであれば全く問題はないですが、大沼さんの言葉を引用先を載せずに自分の言葉として載せていたのにはなんかショックでした。
「高森顕徹会長はドクターストップがかかっていても壇上に立つ、本当に素晴らしい仏教に命をかけておられる方だ」と何度も聞いてきました。なので残念でした。
他にも「親鸞会のF館は会員には5階建てだと機関誌にも書いているけど、実は6階部分が高森会長の御殿となっていた件」など、事実無根の誹謗中傷では済まされないような話がザクザク出てきました。
そんな中で出会った本が瓜生崇さんの「なぜ人はカルトに惹かれるのか」です。
https://www.amazon.co.jp/なぜ人はカルトに惹かれるのか-脱会支援の現場から-瓜生-崇/dp/483188779X/ref=sr_1_1?adgrpid=98705920543&hvadid=649207779977&hvdev=c&hvlocphy=1009333&hvnetw=g&hvqmt=e&hvrand=18336867814031635086&hvtargid=kwd-903714696908&hydadcr=3636_13652340&jp-ad-ap=0&keywords=なぜ人はカルトに惹かれるのか&qid=1681794328&sr=8-1www.amazon.co.jp
この本は前半の1/3が瓜生さんの実際の体験談で、残る2/3は脱会支援をするにあたっての大事な心がけが書かれています。
この本を読んだ感想は、本当に自分の状況そっくりだなと思いました。
今まで瓜生崇さんのことを人格が崩壊した地獄行きの人間としか見ていませんでしたが、本の内容に圧倒されてしまいました。
内容はとにかく読んでいただきたいのですが、特に「100%普通の人間はこの世界には存在しない」という言葉がぐさっと刺さりました。
「今まで親鸞会の世界に閉ざされてきたけど、外の世界にもこんなに心が動かされるようなものがあるんだ…」と感動しました。
そこからは瓜生崇さんにメールを送って、この前2時間話を聞いていただいたりとすごくお世話になっています。
そして、3年間お世話になった親鸞会の講師の先生にも「やめます」ということを伝えました。
ですがまだ完全に抜けきれたわけではなく、今でもよく「地獄に堕ちたらどうなるんだろう…いやだやだ!」と錯乱してしまうことがあります。
きっと何十年もかかる問題だと思っています。しばらくは心を落ち着けて、多様な価値観に触れようと思っています。
これから
ここまでが私の脱会の手記でした。読んでくださり本当にありがとうございます。
結局脱会できたのは数学が楽しかったからというしょうもない理由ですが、趣味の時間が緊張状態にあった私の心にすきを作ってくれたんだと思います。
どんな状況でも自分が本当にやりたいこと、やってて心から楽しいと思えるものを持つというのは本当に大事だなと実感しました。
そして、みんな言ってることが違いすぎて浄土真宗の正しい教えはまだわかっていないのですが、少なくとも親鸞会の教えは違うのではないかと思っています。
というのも、<一切衆生 必堕無間> と経典と誤解させるような言葉を自作して布教している団体はろくでもないからです。
自作の言葉であるとちゃんと明らかにしているのなら何も言いませんが、説法のときも「一切衆生 必堕無間 (釈迦)」という紙を掲げたりして明らかに相手を誤解させるようなやり方を取っています。
「嘘をついてはいけない」と言っておきながら、このような詐欺まがいなことをしているのは自己矛盾だと思っています。
なので仮に親鸞会が真実だとしても、親鸞会の他にも真実があると思います。親鸞会だけが真実というのはありえないです。
そして最後にですが、私は今まで詐欺まがいの勧誘を繰り広げてきたのですごく心に重いものが残っています。
目の前にいる人の幸せではなく、自分たちの世界の「救い」に押し込もうと躍起になっていたのを思い出します。
なのでこれからは少しでも人の話を傾聴できる人間になりたいと思っています。
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